Related Peoples
「銀の馬車道」は多くの偉人が行き交った道である。
生野銀山や周辺鉱山の開発のため、海外からも国内各地からも時代をリードし支えた人々が行き交った。
また、「銀の馬車道」沿道各地域からは、多くの偉人を輩出している。
これも、「銀の馬車道」を通った新しい文化や文明に触発され、広く世界と繋がったことによるからか、
進取の気性に富んだ人々がさまざまな分野で活躍しています。
朝倉 盛明の経歴 | |
---|---|
天保14(1843) | 薩摩藩士の二男として出まれ幼少期から医術、蘭学を修得 |
元治 2(1865) | 藩命によりイギリスに留学 |
慶応 2(1866) | イギリスからフランスに渡り、フランス語、鉱山学を学ぶ |
慶応 3(1867) | 帰国後、薩摩藩開成所のフランス語学教師に就く |
明治元(1868) | フランス人鉱山技師コワニェの通訳として生野に入り、生野銀山の再開発に取り組む |
明治 5(1872) | 工部省鉱山助 |
明治 6(1873) | レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事着工 |
明治 8(1875) | 初代盛明橋、初代生野橋(旧薮田橋)が完成 |
明治 9(1876) | 飾磨津物揚場が完成 「銀の馬車道」が完成 |
明治16(1883) | 生野鉱山局長 |
明治19(1886) | 生野鉱山局事務長 |
明治22(1889) | 生野支庁長 |
明治26(1893) | 病気を理由に辞職、大阪に転居、その後、京都市内に居住 |
明治28(1895) | 播但鉄道(生野~飾磨)が開通 |
大正 9(1920) | 「銀の馬車道」廃止 |
大正13(1924) | 京都にて死去 81歳 |
薩摩藩は、鎖国中の元治2年(1865年)、欧米先進諸国の産業や近代的な技術への関心の高まりと、優れた人材を養成する必要性をから、五代友厚の引率のもと、のちに初代生野鉱山局長となり「銀の馬車道」建設を監督した朝倉盛明を含む若者19名を英国に派遣しました。選抜された留学生はイギリス、フランスなどで多くを学び、その経験と知識は日本の近代化を進める大きな一歩となりました。
その出港地となった鹿児島県いちき串木野市の羽島地区では、毎年、留学生の偉業を称える「黎明祭」を開催。陣羽織を着て薩摩藩英国留学生に扮した地元羽島の小中学生が,国禁の海外渡航に意を決して臨んだ当時の留学生の覚悟を思わせる堂々とした演技で、それぞれ鹿児島弁と英語で留学生の紹介をおこなっています。
また、同市では日本の近代化に貢献した彼らの功績を継承し、地域文化・観光振興に活用するため、薩摩藩英国留学生記念館を開館。留学の旅と帰国後の人生についてご紹介、留学生の歴史的背景やそれぞれの葛藤、驚きや戸惑い、そして体験や学びの成果を現在に伝えています。