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「銀の馬車道」は多くの偉人が行き交った道である。
生野銀山や周辺鉱山の開発のため、海外からも国内各地からも時代をリードし支えた人々が行き交った。
また、「銀の馬車道」沿道各地域からは、多くの偉人を輩出している。
これも、「銀の馬車道」を通った新しい文化や文明に触発され、広く世界と繋がったことによるからか、
進取の気性に富んだ人々がさまざまな分野で活躍しています。
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。はじめは木下藤吉郎と名乗り今川氏に仕え、続いて織田家に仕官。信長の草履を温める逸話はあまりにも有名。信長亡き後、関白・太政大臣となり豊臣秀吉となり、天下統一を果たす。
秀吉は但馬攻めの戦功として信長より生野銀山を与えられ、信長の没後も直轄事業として生野に代官所を置いて銀山開発を盛んにおこなって収入源とした。また、天正12年(1584)に、羽柴秀吉書状にて「はりましかま」を物資の引渡し場所として指定。その後の飾磨津と姫路の繁栄の礎を築いている。
戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。戦国の三英傑に重用され筑前国福岡藩祖となる。官兵衛は通称で、本名は孝高。天正三年(1575年)、播磨が織田と毛利に挟まれて緩衝地帯となり「どちらに着いたら良いのか」と悩む主君小寺政職(まさもと)に対して「守るばかりの毛利より、攻め続ける織田へ。」と進言したのが始まりで、結果、姫路に入った秀吉に惜しげもなく城を譲渡し、天下統一を果たした秀吉の元で、優秀な軍師として辣腕を振るいます。
薩摩藩出身。医学を学んだ後、薩摩藩英国留学生に参加。イギリスからフランスに渡り、語学、鉱山学を学び帰国。薩摩藩開成所フランス語教師を経て、明治政府の名を受け、明治元年(1868年)25歳の時にお雇い外国人であるコワニェと共に生野に入る。最新の精密な鉱石の分析技術や、ポンプを使用した排水、西洋式の器械や火薬を使った採掘法などにより生野鉱山を再生〜近代化に成功。以来25年間にわたり、国内外からの大型機械の導入や、新しい輸送手段となる馬車専用道路の建設など、生野鉱山の発展に大きく貢献する。初代生野鉱山局長。
朝倉 盛明の経歴朝倉 盛明の経歴 | |
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天保14(1843) | 薩摩藩士の二男として出まれ幼少期から医術、蘭学を修得 |
元治 2(1865) | 藩命によりイギリスに留学 |
慶応 2(1866) | イギリスからフランスに渡り、フランス語、鉱山学を学ぶ |
慶応 3(1867) | 帰国後、薩摩藩開成所のフランス語学教師に就く |
明治元(1868) | フランス人鉱山技師コワニェの通訳として生野に入り、生野銀山の再開発に取り組む |
明治 5(1872) | 工部省鉱山助 |
明治 6(1873) | レオン・シスレーを技師長として「銀の馬車道」の工事着工 |
明治 8(1875) | 初代盛明橋、初代生野橋(旧薮田橋)が完成 |
明治 9(1876) | 飾磨津物揚場が完成 「銀の馬車道」が完成 |
明治16(1883) | 生野鉱山局長 |
明治19(1886) | 生野鉱山局事務長 |
明治22(1889) | 生野支庁長 |
明治26(1893) | 病気を理由に辞職、大阪に転居、その後、京都市内に居住 |
明治28(1895) | 播但鉄道(生野~飾磨)が開通 |
大正 9(1920) | 「銀の馬車道」廃止 |
大正13(1924) | 京都にて死去 81歳 |
1873年、鉱山都市サン・テチェンヌ生まれ。国立鉱山学校にて学んだのち、鉱山技師としてヨーロッパ、アメリカなどにて経験を積む。慶応3年(1867年)に薩摩藩の招聘により来日。幕府体制の崩壊後、明治元年(1868年)に明治新政府と契約し直し、朝倉盛明とともに生野入り。火薬爆破の導入、軌道の敷設、巻き揚げ機の設置など、先進技術により鉱山の生産力を増強、近代化に尽力。また、実学的な鉱山教育をおこなうべく明治2年に修学実験所を開設。コワニェに学んだ多くの技術者が、その知識とともに全国に広がり、明治日本の発展を支えることとなる。
生野在勤:明治元年(1868年)6月~明治10年(1878年)1月
土質家、鉱山技師。日本初の舗装道路であり、流通の大改革となる「銀の馬車道」のルート設計をおこない、ヨーロッパで普及していたマカダム式舗装をはじめ、最先端の技術と工夫をとり入れた馬車道の建設を監督。内陸の生野鉱山から瀬戸内海に面した飾磨津まで、約49kmの全行程において、高低差を少なく、勾配には屈曲を設けて緩やかにし、より速く、より安全に行き来できる、水はけの良い丈夫な馬車専用道路を作り上げました。また、馬車道の発着点である飾磨津物揚場(姫路市)の建築設計もおこなっています。コワニェの義弟。
嘉永3年(1850年)萩藩の藩医の子として生まれる。明治5年(1872年)に生野鉱山寮に出仕、修学実験場にてコワニェ、シスレーらにフランス語、地質学、植物学び、生野鉱山での勤めを辞した後も生野に残り、通訳を務めたほか、コワニェに付き添って日本各地の地質調査をおこない、明治7年(1874年)には地質図として日本初となる「山口県地質図説」「山口県地質分色図」を著すなど日本の近代化に貢献。そののち、日本画家として大成、高島北海を名乗る。
明治の偉人乃木希典とは長州藩の藩校、明倫館にて同窓。
安政3年(1856年)2月6日生まれ。政治家、実業家。明治20年(1887年)に浅田貞次郎らとともに「銀の馬車道」を馬車道鉄道化する計画を兵庫県知事に提出。のちに計画は蒸気動力に変更され、播但鉄道(現JR播但線)を設立。発起人の一人となり、用地買収などで重要な役割を果たすとともに、私財を投じ開設に尽力する。
播但鉄道は明治27年(1894年)、姫路〜寺前間が開通。内藤はその後、社長に就任するほか、電力事業や銀行、紡績会社の設立に参画、播磨の経済発展に寄与。
市川町の甘地駅前公園にはその功績を讃えた顕彰碑が建てられています。
安政2年(1855年)、福本藩士の四男として誕生。17歳の時に代々生野代官所に仕えた浅田家の養子となり、以降、鉱山の発展に力を注ぎ、人々の信頼を集め銀山廻り11町村の戸長に就任。その後、兵庫県議会議員を経て衆議院議員となり、国政に従事。明治29年(1896年)に鉱山が民間に払い下げとなる際には、町民の代表として御下賜金の交付に取り組む。また、播但鉄道の設立発起人や生野銀行の創設頭取などを務めるほか、町政の振興、近代化の推進など郷土の発展に尽す。姫宮神社の公園には浅田貞次郎翁の銅像が設置され、その功績を現在に伝えている。
明治8年(1875年)生れ。農務官僚、貴族院書記官長、枢密顧問官を務めるほか、民俗学者として活躍。日本民俗学の父と呼ばれ「遠野物語」をはじめ多数の著作を著す。生家は「銀の馬車道」沿線である現在の福崎町辻川にあり、馬車道を行き交う様々な情報に好奇心を大いに育んだといわれています。
「自らの民俗学の原点」と評した生家は現在、福崎町立「柳田國男・松岡家記念館」の西隣に移築・保存されています。
文化勲章受章、最晩年に名誉市民第1号。没後に正三位勲一等、旭日大綬章を受章。
明治38年(1905年)現在の朝来市生野町、口銀谷の生野鉱山社宅(甲社宅)に生まれる。父は三菱生野鉱業所の冶金技師で生野鉱山に勤務。舞台俳優から映画俳優となり、昭和18年(1943年)、黒澤明の第1回監督作品『姿三四郎』で老柔術家・村井半助を演じて以来、黒澤作品には欠かせない存在として、21本の黒澤作品に出演。「黒澤明監督作品には欠かせない俳優」といわれるに至り、昭和27年にはNYタイムズに「世界一の名優」と絶賛された。「志村喬記念館」では幼少期の暮らしや往時の雰囲気が感じられる復元社宅、遺品などが展示されています。
薩摩藩は、鎖国中の元治2年(1865年)、欧米先進諸国の産業や近代的な技術への関心の高まりと、優れた人材を養成する必要性をから、五代友厚の引率のもと、のちに初代生野鉱山局長となり「銀の馬車道」建設を監督した朝倉盛明を含む若者19名を英国に派遣しました。選抜された留学生はイギリス、フランスなどで多くを学び、その経験と知識は日本の近代化を進める大きな一歩となりました。
その出港地となった鹿児島県いちき串木野市の羽島地区では、毎年、留学生の偉業を称える「黎明祭」を開催。陣羽織を着て薩摩藩英国留学生に扮した地元羽島の小中学生が,国禁の海外渡航に意を決して臨んだ当時の留学生の覚悟を思わせる堂々とした演技で、それぞれ鹿児島弁と英語で留学生の紹介をおこなっています。
また、同市では日本の近代化に貢献した彼らの功績を継承し、地域文化・観光振興に活用するため、薩摩藩英国留学生記念館を開館。留学の旅と帰国後の人生についてご紹介、留学生の歴史的背景やそれぞれの葛藤、驚きや戸惑い、そして体験や学びの成果を現在に伝えています。