銀の馬車道の歴史

History

はじめに

時空を超えて辿る輝きの道
生野から飾磨へ

かつて生野鉱山と飾磨津を結んでいた「銀の馬車道」。
それは、日本で一番最初の「舗装」という概念をもって作られた道路。
明治の幕開けとともに欧米列強に「追いつけ」「追い越せ」と、若き日本が挑んだ前人未到のプロジェクトでした。

現在は播但道路や国道にその姿を変え、地域の人々と日々の暮らしをともにする馬車道ですが、
明治時代にはこの道を銀や物資を運ぶ馬車が行き交い、沿線は大いに栄え賑わいました。

今でも、この馬車道の界隈はのんびりした田園風景の中にも、往時の繁栄を彷彿とさせる地域が多く在り、
道中には昔の面影をとどめる「あぜ道」や「馬車道修築の碑」「橋」や「道標」など、
かつての姿に想いを馳せることのできる痕跡が残っています。

誰も見たことのない「価値」を持つ。
誰も知らない「道」をつくる。

沿道の人々に大きな驚きと歓びをもって迎えられ、最先端の土木技術によって作られた馬車道は、
生野鉱山の物資の他にも、鉱山開発における最先端ので知識や情報、
お雇い外国人がもたらした西欧の生活文化など
言葉では表せないような時代の潮流、近代化の脈動を運び続け、力強く時代を牽引していきました。

それは「殖産興業」を国策に掲げた明治新政府が産業を支える新たな物流手段の確立であるとともに、
日本で初めて築かれた高速産業道路である「銀の馬車道」は、
先取先進で時代を切り拓いていくという、その後のわが国の姿勢を指し示し体現するものでした。

より速く、より安全に、生野から飾磨津の間、約49kmを結ぶ夢の道路は、
経済性、社会性、利便性の絶妙なバランスと秀逸な道路計画によって
史実としての興味深さと迫力、遺産として価値を礎、
誕生当初の役割を終えてなお、時代を全力で駆け抜けた人々の輝きを、時を超えて現在に伝えています。

そうして「銀の馬車道」の物語は、ふたたび未来へとつなぐ力となり、
中播磨の地に脈々と息づいているのです。

中世

写真提供:吉田利栄

銀の出ること土砂の如し。海抜300m余りの盆地は「銀谷(かなや)」と呼ばれ賑わった。

戦国の大名が軍資金を確保するために競った鉱山開発。
「生野」を治める者は「天下」を治める者となる。

瀬戸内海に注ぐ市川と日本海に注ぐ円山川の分水界。日本有数の銀鉱山として栄えた「生野」は但馬と播磨の国境、海抜300m余りの盆地にあり、銀鉱山は市川の源流部となる谷沿いに開け、町は「銀谷(かなや)」と呼ばれ大変に賑わっていました。

生野で銀鉱が最初に発見されたのは、奈良時代の終わり頃となる大同二年(807年)といわれていますが、その後、戦国時代となる天文十一年(1542年)までの700年間の記録が発見されておらず、通説では天文十一年が開抗の時とされています。

この天文十一年は但馬守護職の山名祐豊が生野に外堀、内堀を備えた三層の城郭を築いて本格的な銀山経営に乗り出した時期であり、また、この頃に大陸から画期的な精錬技術である「灰吹法(はいふきほう)」が伝来し、産銀量が増加。多くの鉱脈も発見され「銀山旧記」では、「此等の間歩より銀出る事 恰も土砂の如し」とその盛況ぶりが伝えられています。

これらのことから、戦国大名たちは軍資金の確保の必要から鉱山の開発・確保を競うようになり、生野の山谷が覇者となるための要衝であったことは想像に難くありません。

時代は戦国から安土桃山となった、天正五年(1577年)十月、織田信長配下の羽柴(豊臣)秀吉は黒田官兵衛(黒田孝高)に迎えられて姫路城に入城。官兵衛は秀吉の側近として仕えることとなり、軍事的才能を大いに発揮し、生野銀山の確保をいち早く進言。天正八年(1580年)頃、秀吉によって山名一族を攻略する「但馬攻め」がおこなわれ、生野銀山、竹田城、出石城を攻略して但馬平定が成し遂げられ、生野銀山は織田信長の支配となり、その後、秀吉に所領として与えられます。

また、生野の鉱石を都へと運ぶ海の玄関口となる飾磨津は、古代の「韓泊まり(からとまり)」が始まりであるとも伝えられており、舟運が大規模な流通の唯一の手段とも言える時代において、都や大阪を経済の柱とした瀬戸内経済圏の発達に伴い、良港である飾磨津は重用され、時代とともに整備・開発がおこなわれ、生野鉱山との関わりを深くしていきます。

時は巡り。天下は豊臣の治世となり、生野銀山も「銀出る事夥し」(銀山旧記)と隆盛を極め、織田、豊臣の政権基盤を支えた生野銀山は、慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いによって徳川の支配となります。新たに天下人となった家康は佐渡、石見などとともに生野三万七千石を直轄領として銀山奉行を置き、信長、秀吉と同様に積極的に鉱山経営をおこないました。

銀山旧記に「生野銀山開発以来、其の繁栄是に至って極まれりといふ可し」といわれ十六世紀半ばから十七世紀半ばと極盛期を迎えた生野銀山は、その後に起こった火事による労働者の流出などにより一時は廃山の危機となるも、十七世紀後半から再び活況を取り戻し徳川幕府の繁栄を支えますが、開坑から三百年以上を経過した江戸末期になると、暗く細い坑道を鑽(たがね)と山槌(やまづち)で掘り進む工法での採掘量の限界、換気や地下水の排水処理などの諸問題によってほとんど休山状態となり、水に埋もれ闇に閉ざされたまま、明治と共に到来する近代化の波を静かに待つこととなります。

[参考文献]
生野銀山と銀の馬車道/清原幹雄・著
生野銀山史の概説/シルバー生野・編

【飾磨津】

人、物、文化が行き交う港。そこは、先進思想を受け入れ、揺籃し、発信を繰り返す。歴史の脈動を感じさせる場所。

「飾磨津」は「飾磨」の海岸で、船が着き客や荷物を渡したのでこの名となったもの。室町時代から安土桃山時代となる十六世紀頃から、流通経済の発展に伴って大量の物資輸送の主役は海路を船でゆくこととなり、軍師・黒田官兵衛と秀吉らによって飾磨は播磨の輸送拠点として発展の道を歩みます。そして、江戸時代になると北海道から日本海を経由して瀬戸内を通って大坂、江戸に向かう北前船も寄港するようになり大変賑わい栄えました。生野、但馬の街道、船場川とつながり、大城下町・姫路の最重要輸送基地として確立された飾磨津が、その後背地に広がる地域の進化・発展に大きく関与したことは言うまでもありません。風土記説話に伝わる昔から、播磨国の中心として開拓された飾磨が、気候も良く、災害も少なく、豊かな山に囲まれた市川下流のデルタ地帯であり、人々にとって大変に魅力的だったことが想像できます。

馬車で賑わう飾磨

近代

生野銀山全景の大きな写真

幕末動乱から明治維新を経た新生日本が挑む、ゆるぎない独立国家への道。

日本を近代国家へと成長させるための殖産興業政策。
篤い想いで未来を拓く、明治の志の物語。

嘉永六年(1853年)の黒船来航から十五年。前年に大政奉還、王政復古と明治の改革がおこなわれた慶応四年(1868年)一月。ともに後の内閣総理大臣となる西園寺公望、黒田清隆らが生野銀山を訪れ、それまで幕府の支配下に置かれていた生野代官所を接収。浸水に眠っていた鉱山にも明治の幕開けが告げられます。

生野銀山を押さえた明治新政府は、銀山の採掘の可否を見極めるべく、早々に調査、検討を開始。同年九月には「鉱山官行ノ議」が建議され、生野銀山は官営鉱山として運営される政府経営期を迎え、同月末には「お雇い外国人」である鉱山技師フランシスコ・コワニェと、その通訳として後に「初代生野鉱山局長」となる朝倉盛明を生野に派遣します。

ちなみにこの時ふたりは、最初に太盛(たせ)、金香瀬(かながせ)、若林のほか、生野に近い中瀬金山などを調査。採鉱や精錬の状態、廃棄同然であった坑道などを調べた結果、人力、手作業による旧態依然としたやり方を機械化することによって、これまで以上の生産量を確保することは可能であると判断します。そして改元を迎えての明治元年十二月には鉱山司生野出張所が置かれ、日本で最初の官営モデル鉱山としての再建計画が始動することとなります。

しかし、なぜ、この早々のタイミングで朝倉盛明とコワニェは生野に入ることができたのでしょうか。それには少し時をさかのぼっての説明が必要となります。

時は慶応元年(1865年)まだ日本人の海外渡航が国禁として禁じられていた時代におこなわれた、薩摩藩英国留学生に参加していた朝倉盛明はイギリスからフランスに渡り、語学、鉱山学を学び帰国後は薩摩藩開成所のフランス語学教師となります。

そして、同時期に留学の随員だった五代友厚は、滞欧中のブリュッセルにおいて、貴族であり実業家、外交官の顔を持つモンブラン伯爵と商社設立の調印をおこないます。その契約の覚書には「土質学の達人を相雇い藩内を悉(ことごと)く点検させる」と記されており、モンブラン伯爵の指示のもと、慶応三年(1867年)十一月八日、ジャン=フランソワ・コワニェは極東の地、日本列島は九州、鹿児島を訪れることとなり、通役としての朝倉と出会い、それからのほぼ一年間に渡って薩摩で鉱山の調査にあたり、そのさなかに幕府体制の崩壊に巡り合わせたコワニェはそのまま明治新政府の「お雇い外国人」第一号になったという経緯があります。

新政府にとって何よりも急務だった、産業の振興と財政基盤の確立。西洋の優れた技術や製品を買うために大量の資金を必要とした明治政府は金貨、銀貨の源となる鉱山の開発に力を注ぎつつ、製鉄、鉄道、電信、造船など基幹産業の官営化を緊急の課題として、軍事工業と官営工業を中心に欧米の生産技術や制度を導入,急速な工業発展を図る「殖産興業政策」を掲げ、資本主義育成を推進。欧米列強の脅威に屈することのない独立国家を目指して果敢に邁進していきます。

ジャン=フランソワ・コアニエ / 朝倉盛明
朝来市教育委員会提供

薩摩藩英国留学生

【薩摩藩英国留学生】

動乱の時代に芽生えた新時代への胎動。
若者が近代国家、明治日本を牽引する力となる。

まだ日本が鎖国中だった元治二年(1865年)に薩摩藩がおこなった「薩摩藩第一次英国留学生」は、文久三年(1863年)の薩英戦争において英国の巨大な海軍力を目の当たりにした藩主、島津斉彬が欧米先進諸国の産業や近代的な技術に関心を抱くとともに、未来を担う人材育成の必要性を痛感したことに始まり、薩英戦争でイギリス軍の捕虜となった経験を持つ五代友厚によって計画、実行されます。人員は藩の洋学養成機関である「開成所」の優秀な学生を中心に選抜され、助手であった朝倉盛明(当時23歳)をはじめ、13歳から31歳のいずれも藩の期待を担った若者達19名が参加しました。後に朝倉は初代生野鉱山局長に、随員の五代友厚は実業家となり関西経済界の重鎮として活躍する他、政治、実業家を輩出するなど、参加者の多くは明治日本を牽引する人材となりました。

五代友厚

西欧文明を精力的に吸収する日本。近代化によって再生する生野鉱山。

叡智を授け、技術を揮い、次世代に繋げる。
時間と情熱を糧に未来へと積む、近代化という礎。

ペリーの来航以来、顕著になった欧米のアジア進出。新政府はその国際的圧力に対抗するために欧米をモデルとした富国強兵、殖産興業の実現を図る手段として、産業革命に成功したイギリスを始め、フランス、ドイツ、アメリカなどから即戦力となる多くの技術者や教育者を迎え入れます。

生野鉱山でも明治元年から十四年までに合計二十四人のフランス人技術者が雇われており、その職種は、 鉱夫、ポンプ職、煉瓦づくり職、左官職、器械方、焼礦夫、鋳形職、坑夫、医師など数多くに渡り、設備や器械の整備にあわせて順次雇用されました。その中にはコワニェのように夫人を伴って来た者もあれば、単身者もありといろいろで、先進的で文化的な外国からやってきた人々の暮らしぶりは山あいの鉱山町で大いに話題となりました。

近代化に向けた改革をおこなって鉱山の再生を目指すコワニェたちは、まず鉱石を精密に分析し、その結果、以前の灰吹金には金分が分離されずに含まれ、低品位に扱われたことを発見。当初計画していた銅鉱中心の事業から銀鉱採掘に方向転換。それにあわせて、横須賀製鉄所やフランスへ金銀精錬用の設備を発注し、土質家、坑夫をフランスより増員します。

また、人材育成のための鉱山学校(修学実験場)を設立。採鉱や精錬の経験を積みながら、鉱山学の理論も兼ね備える実質的な教育をおこない多くの優秀な人材を育て輩出します。この鉱山学校は後に日本全国で活躍する鉱山技師を養成するとともに、当時最先端であった生野鉱山のテクノロジーやノウハウを日本全土に広めてゆく原動力となり、日本の近代化において、生野鉱山が大切な役割を果たし、その源流であるといわれる所以となっています。

こうして、江戸時代の露天掘りやタヌキ堀りに代わり、西洋式の器械や火薬を使う発破法(発破の実作業使用は日本初)など、新しい方法によって効率化が図られ、順調に近代化の道を進む生野鉱山でしたが、明治四年(1871年)にコワニェが大型器械導入のためにフランスに一時帰国した留守中に大惨事が発生します。

この騒動は播但農民一揆に端を発した生野銀山の焼き討ち事件といわれるのもので、朝倉盛明も不在の間に起こった火災は鉱山寮生野支庁を焼き尽くし、三年余りを費やして整えた建物と器械設備のほとんどが一瞬にして灰燼と帰してしまいます。

しかし、朝倉とコワニェはこの惨事にも屈することなく準備した大型器械の導入を軸に再建計画を進め、四年余りの歳月と多大な努力を注いで、明治九年(1876年)五月に待ちに待った大器械の落成を迎え、明治元年十二月の官営開始から九年間に及んだ生野鉱山の近代化プロジェクトは完成の暁を見ることとなります。

また、時は相前後して再建計画も進行さなかの明治六年(1873年)には、鉱山の本格稼働を三年後に控え、日々拡大、成長する生野鉱山で必要とされる器械や塩、石炭、日用品などの物資と、産出された銀の輸送をおこなうための「生野鉱山寮馬車道」(通称:銀の馬車道)の建設が開始され、大器械の落成と時を同じくして開通します。

これは、コワニェの義弟であるレオン・シスレーを技師長として、生野鉱山と飾磨津の間、全長約49kmに馬車専用道路を建設するというもので、当時、ヨーロッパで使用されていたマカダム式舗装を始めとする最新の土木技術によって、馬車が安全かつスムーズに走行できるよう、雨などの天候に左右されない、排水性が高く堅固な道路を従来の道を修築し敷設していくという、日本人が経験したことのない前代未聞の一大事業でした。

近代化がおこなわれ再生された鉱山は、朝倉盛明が工部省沿革報告に記載した概要によると、稼働中の鉱脈は十七(銀鉱10/銅鉱7)を有し、高さ約1.95m、横幅1.8mの規模の坑道、坑内に約四十か所。加えて開発中の立坑、三か所。横抗、二十五か所を数え。坑内には鉱石や捨石を引き上げるための鉄車(エレベーター)を整備。動力十五馬力の蒸気機関で昇降する鉄車は、湧き水を汲みあげる機能も兼ね備え、横抗に設けた鉄製の線路は約8.6kmに及び、運搬に使う鉱車(トロッコ)には約百貫(375kg)の鉱石が積載可能という、大変素晴らしいものでした。

[参考文献]
生野銀山と銀の馬車道/清原幹雄・著

昔の鉱山入り口

史跡生野銀山の入り口

明治時代に作られた「馬車」

【近代化の喜び】

生野鉱山の本格始動となる大器械の落成と、日本初の
高速産業道路「生野鉱山寮馬車道」銀の馬車道の開通。

明治九年(1876年)五月二十三日。生野鉱山の本格始動となる大器械落成式(鉱山開業式)は時の工部卿である伊東博文らを迎えて盛大に執りおこなわれ、街路には2000個の提灯、祝いの餅まきは七石五升(約1125kg)と1トンを超え、踊りや生野銀山絵巻に描かれた「見石引き」もくり出して大変な賑わいとなりました。

また、同年に完成となった「銀の馬車道」の道中、最も難関であったと言われている薮田村から砥堀村に渡る93間(約167m)の薮田橋は馬車道竣工に際し「生野橋」と名を改められ、橋のたもとに建てられた「馬車道修築」の碑には、重責を担った朝倉盛明により、その経緯や尽力した人々の名前とともに、当時の日本では未曾有の事業であったことが記されています。

馬車道修復の碑

産業を支える物流手段の確保。速く、安全に生野銀山と飾磨津を結ぶ夢の道路。

誰も見たことのない「価値」を持つ。
誰も知らない「道」をつくる。

明治四年(1871年)十月に発生した焼き討ち騒動による影響はとても大きなものでしたが、朝倉盛明の指揮のもと、コワニェをはじめとする技術者や坑夫、医師など、多くのフランス人と明治の日本人たちが力を合わせた、復旧、復興は素晴らしく、生野の町の勢いと秘めた力を感じさせるものでした。

選鉱や精錬のための大型器械の整備も順調に進み、新たに七抗の開削も決定され、生野鉱山の近代化がどんどんと進む中、鉱山の本格稼働に伴う必要物資や鉱産物の輸送増加が見込まれるのは必然であり、大量の物資を輸送する「物流手段の確保」が急務となります。

しかし、当時の生野から飾磨津までの道は、人が移動する需要も少なく、「但馬道」「生野街道」と呼ばれた道でも、その幅はわずか2m程度。雨が降れば泥に沈み、細く整備されていない道しか知らない当時の人々にとって、生野から飾磨津までの輸送ルートの構想〜実現は想像を絶する困難なものだったのに違いありません。

そもそも日本は、その国土の七割以上が山地で、平坦な土地が少なく、起伏の多い山や谷、峠の存在が内陸部への物資輸送を困難なものとしていました。また、兵力や武器の大量輸送を可能とすることは、幕府を脅かすことに直結するといった、江戸時代まで続いた幕藩体制下の制約があったことや、古来から「馬車」の文化が根付かなかったこともあり、移動手段は「徒歩」が主流で、その他には「駕籠(かご)」があるくらいで、山を越える時にはテレビの時代劇に出てくるような峠道を行き交って、河川を渡る場合は「渡し船」となり、物資の輸送においては人か馬に背負わせて運ぶか、河川を利用した舟運を用いることが一般的でした。

このような背景から、日本での道路整備の幕開けは明治の到来を待つこととなり、生野鉱山と飾磨津を結ぶ夢の道路は、さまざまな要素や条件を満たすこの地で、実現へと向かいます。

生野鉱山は、織田・豊臣・徳川の時代から明治の後半に至るまで、重要な財源だった銀を産出する鉱山の多くが山深い地にある中、近くに城下町・姫路を擁し、大きな流通拠点である瀬戸内海に面した飾磨津まで約49km、神戸、大阪といった市場となる都市からも近く、また市川沿いのは低地地形で利便性が高いという好条件を伴う鉱山だったため、日本で最初の本格的な「産業道路」の整備は、この地で産声をあげることとなります。

最初、鉱石の輸送手段として、検討されたのは「鉄道」でしたが、明治五年(1872年)に日本で初めて開通した、新橋〜横浜間(約29km)の建設費が二百八十万円余りという巨額な費用であったため、生野〜飾磨間(約49km)の場合、その距離の長さと、途中に横たわる生野峠に工事の難航が予想されること、また当時の生野鉱山の輸送物資の需要見込みからも費用対効果は低いとされ断念されます。

続いて、市川を活用した舟運計画が検討されますが、新たな掘削と浚渫工事の難しさと費用、そして米作りに水が必要な時期には河川は利用できないという大きな欠点があり見送られて、最終的に道路案に決着します。

そうして、「生野鉱山寮馬車道」(以下通称:銀の馬車道と呼称)は、フランス人技師長レオン・シスレーの指導のもと、明治九年(1876年)に完成。その「道」としての輸送能力はもとより、工事によって得られた最新の土木技術のノウハウや西欧の生活様式や文化は瞬く間に「銀の馬車道」を通じて広く伝わることとなり、沿線地域の発展を力強く牽引していくものとなります。

日本で初めての舗装がなされた「馬車専用道路」を目の当たりにした沿道の人々は、それまでの曲がりくねった細い道とは全く異なる、幅が6〜7mもあるまっすぐな道を見て大いに驚いたという記録が残っており、また、大八車や四輪の馬力が行き交う街道の見たこともない風景に、馬車道沿線の人々は近代化を肌で感じながら、産業発展のみならず、文化の到来を深く感じる至りました。

晩秋各所絵図

【銀の馬車道のここがスゴい】

重たい荷車を馬が引っ張りやすくする。
真っ直ぐで、坂道が少い、水はけが良くて丈夫な道。

約49km全行程において、馬が一定の速度で無理なく走れるよう設計された「銀の馬車道」は、生野〜飾磨津の間で直角に曲がるところはわずかに2か所。極端な高低差を避けた緩勾配の道路となっていて、唯一の難所となる真弓峠では縦断勾配を緩やかにするためにS字カーブを使用道路延長を長くとっ作られています。互通行に充分である5.4m〜10.8mの幅を持つ道路は、中世から馬車道の技術を育んだヨーロッパの技術である「マカダム式舗装」を採用、あら石、小石、玉砂利を3層に積むなどして突き固めた路面は、雨などの天候に左右されない排水性の高い堅牢な設えとなっており、他のか所においても、地勢や状況に合わせてそれぞれに設計されている基礎など、「頑丈さ」「使いやすさ」を求めた細やかな心配りが感じられます。

  • ①路盤部:耕土取り除きの上、土砂混り粗石
  • ②表層部:3cm程度の小石、厚さ15~20cm
  • ③目つぶし砂利:1cm程度の豆砂利と砂
  • ④水田より60cm高くする

国立公文書館に保存されている「生野及ヒ飾磨之間新道見込之図」によると、馬車道のルートは、先に考案されたと思われる、市川の右岸を通り里道を生かして建設する、現在のJR播但線のルートに似た「レスカス案」と、市川の左岸を通り、基本的に生野街道を拡幅するという、後に新しく提案されたと思われる「シスレー案」の2案があり、二つの案を比較すると、「レスカス案」は「山を切り開く大きな工事がある代わりに市川を横断する橋梁が不要」、「シスレー案」はその逆に「大きな工事はないものの市川を渡る橋梁は必要」と、それぞれに一長一短があり、その優劣を決する決定的な要素は見当たりません。

しかし、修築の責任者である朝倉盛明が経済性を最も重視していたことから、「以前から人が行き交うルートを踏襲する」「沿道に茶屋や商店があり利便性が高く追加の整備が不要」「当時の神崎郡の中心地である辻川を通過する」などの要素から、市川に橋を架けたとしても「シスレー案」がより合理的であると判断され、採用されたものと考えられます。

朝倉盛明は工部省に提出する資料のなかで「銀の馬車道」の費用と効果について、新たな道路と従来の道路の輸送経費を詳細に比較検討しており、新しい舗装道路となる修築後にはコストが8/1程度に削減することが可能だと試算。勝算を得た計画はいよいよ実行に移されます。

日本初となる、道路に「舗装」という概念を取り入れ、当時の技術では大変難しいとされていた橋を大小合わせて二十二本も架けた馬車道。沿線の民家に配慮してバイパスした神河町猪篠(かみかわちょういざさ)や、逆に宿場町の活況を損なわぬよう従来の生野街道をそのままに拡幅した市川町屋形での計画決定など、官民の協調も素晴らしく、経済性、社会性、利便性を考慮しながら、絶妙なバランスで道路計画が策定され、力強く進められていくところに、この「銀の馬車道」の史実としての興味深さと迫力、遺産として後世に伝えていくべき価値があるのではないでしょうか。

できるだけ抑えたコストの中で求められる品質。前例もマニュアルも全くない馬車道づくりを支えたのは、遠く未来を見据えてこの道を使う人々を想う心と、単に工事を完成するということにとどまらない、土木技術の継承と、その実地。フランス人技術者たちと日本人との間にあった師弟関係、技術に賭ける篤い想いがあったであろうことを伺わずにはいられません。

現在も見ることのできる、生野橋のたもとに建てられた「馬車道修築」の碑には、責任者である朝倉盛明により、その経緯や尽力した人々の名前とともに、当時の日本では未曾有の事業であったと記されているほか、「延長十二里十五丁石を畳み砂を敷き高低は平均し川沢に橋を架し¬夙夜怠らず」と記されており、約49kmの全行程が丹念に舗装された革新的な道路であったことが伺えます。

明治20年生野鉱山事務所前にて

馬車で賑わう飾磨

「銀の馬車道」が開通した翌年の明治十年(1877年)、官制改革の改組で、朝倉盛明は工部権大書記官に任命され、方や盛明とともに十年近く生野鉱山の近代化に取り組んできた、わが国初のお雇い外国人技師、コワニェは雇用期間満了でフランスに帰国。その一年後、「銀の馬車道」修築の技術主任だったシスレーもその任務を解かれます。

その後、明治十六年(1883年)朝倉盛明、工部省生野鉱山局長。追って明治二十二年四月一日、生野鉱山は佐渡金山とともに、宮内省御料局生野鉱山となって皇室財産に編入。盛明は引き続き鉱山の責任者として御料局理事、生野支庁長となります。

猛烈な駆け足で近代化する明治日本。時代の変化は急速に進み、明治十年代に東京を中心に長距離馬車輸送が汎用化、十五年には新橋と日本橋間で馬車鉄道が開通。二十年十一月には飾磨港と生野を結ぶ「飾磨馬車鉄道」の出願が内藤利八、浅田貞次郎など八人の発起人によっておこなわれ、知事認可を得ています。

そうして明治二十五年(1892年)、蒸気鉄道建設の機運が高まるなか、社名を「播但鉄道」と改名、蒸気鉄道への計画変更を出願。同年六月「鉄道敷設法」が公布。翌、明治二十六年(1893年)六月、私鉄鉄道として免許状が公布され、一年後の明治二十七年(1894年)七月二十六日、姫路〜寺前間が開通。

かつて人力に委ねられていた物流の動力は、馬車から蒸気機関へと移り変わり、時代はいよいよとその速度を増して未来へと進みます。

この激動の時の流れの中、明治八年(1875年)、飾磨県(兵庫県)神東郡田原村辻川(現:兵庫県神崎郡福崎町辻川)に、後に日本民俗学の開拓者となる柳田國男が誕生。生家が京から鳥取に至る街道と姫路から北上し生野へ至る街道とが十字形に交差する物流や文化交流の盛んな地点にあったことや、十一歳の時に預けられた姫路藩英賀城主の後裔である旧三木家の膨大な蔵書を読破したことなどが、後の活動に大きな影響を及ぼしたといわれています。

[参考文献]
生野銀山と銀の馬車道/清原幹雄・著
銀の馬車道に学ぶ/中播磨県民センター姫路土木事務所
福崎事業所:藤原秀明
ひめじ明治の語り部集/下巻

  • ①車輪:樫の木製:径約1m(接地部は鉄板)
  • ②車台:樫の木製:長さ3m、巾1m
  • ③木枠:取外し可能:長さ2.5m、巾0.9m

【銀の馬車道のコスト】

1トンの物資を生野から飾磨津へ、人夫を使って凸凹道で十七円二十九銭。道をつくれば、僅か二円。その差、十五円二十九銭を削減。

銀の馬車道をつくるのにかかった費用は、当時のお金で88,384円。その内訳は建設費用が52,500円(1mにつき1円50銭)、続いて道路用地と沿線の民家の立ち退き費用などに25,884円。そして、技師長のシスレーの手当てや旅費、その他役人の手当てが10,000円というものでした。合計金額を現在のお金の価値に換算してみると、なんと3500,000,000円(35億円)という規模になり。明治新政府がいかに殖産興業を大切な目標としていたのか。そして、生野鉱山に向けた期待の大きさが伺えます。ちなみにシスレーの月給は300円で、こちらも現在の貨幣価値に換算すると12,000,000円(1千200万円)となり、いかにお雇い外国人が厚遇されていたかが伝わってきます。 ※貨幣価値の換算では当時の金額を4万倍にして計算しています。

※当時の金額を4倍にしています。

そして現代へ

未来に進みゆく時間の中で、静かに力強く息づく篤い想いを。

悠久の時から絶え間なく繋がっているからこそ在る現在。
人々の想いが織り成すからこそ、紡ぎ続けられる未来。

生野銀山が御料局に編入されるのと同時に、生野鉱山に技師として大島道太郎が赴任してきます。大島は東京大学を卒業後、ドイツに留学の経験を持ち、ヨーロッパの採鉱・冶金技術を学んできた気鋭の鉱山技術者でした。

帰国後、東北各地の鉱山開発に従事し事務経験も多く積んだ大島は、明治二十三年(1890年)八月、生野支庁長であった朝倉盛明宛に「生野鉱山鉱業改良意見書」を提出しています。

この意見書には、「採鉱が容易な地層上部は概ね掘り尽くしたが深い地層の部分には多くの鉱物が埋蔵されている可能性が大きなこと」「深層部では採掘は困難になるが技術の進歩で補えること」「進歩した冶金技術の可能性」などが、若く自信に満ちた意見が述べられているものでした。

かつて若き日にコワニェとともに休眠中で水浸しの鉱山を訪れ、若い力と最新の技術で鉱山を再生した日々を持つ盛明はどのような想いでこの意見書を受け止めていたのでしょうか。

新体制下、生野銀山は新たな堅抗の開発や坑道の排水の整備などを進めますが、二十五年、堅抗の工事中に金香瀬坑から大湧水が起こり、他の抗からも出水して工事は大幅に遅延し、予定の収益を得られない状態となり、盛明は宮内大臣から謹慎処分を受け、翌二十六年四月に健康状態を理由に依願退職します。

そして日本が明治建国以来、初めての対外国戦争となる日清戦争を経た明治二十九年(1896年)生野鉱山は、坂本龍馬が率いた海援隊の経理を担当していた過去を持つ、明治の騒乱期の政商にして三菱財閥の創業者である岩崎弥太郎が創業した「三菱合資会社」に払い下げられます。

この払い下げが新聞で報じられると生野鉱山の地元は大騒ぎとなり、町民たち有志が協議して、鉱山を町営とする提案をおこないましたが、その願いは叶うことなく、そのため町民側は下賜金のための運動に方向転換。交渉には播但鉄道の発起人でもある、衆議院議員の浅田貞次郎らがあたりました。この取り組みは実り、「御料局生野銀山町民の協力に報いるため」という理由により、六万九千円の下賜金が銀山町に交付されました。

下賜金の一部は町民に分配され、残る多くは地域の整備事業などに充てられることとなり、生野の町は早くから整備が整った便利な町として栄えました。

名実ともに新時代を切り開いていった 「銀の馬車道」は、但馬の生野から飾磨津を結ぶ幹線道路としての機能を十分に発揮し、生野から飾磨津までの輸送費を八分の一まで低減、大いに成果を上げていきます。しかし、近代化へと突き進む激動の時代は、より効率の高い輸送手段を望み、鉄道へとその役割を譲ることとなります。

日清戦争が始まる、明治二十七年(1894年)、市川町出身の政治家、実業家である内藤利八が中心となって計画された私鉄鉄道である「播但鉄道」の姫路〜寺前間が開通。開通式の日には「寺前駅の周辺には朝早くからむしろを敷いて初めて見る汽車を待ち構える人でいっぱいになった」という記録が残っています。続いて翌年の明治二十八年(1895年)には、姫路〜生野駅までの全線が開通となりますが、鉄道や汽車を見たこともない当時の人々にとって、鉄道がもたらす利便性は想像の及ぶ範囲ですらなく、地域住民の理解を得たり、用地を確保することには多大なる時間と熱意、そして粘り強い努力が必要であったことが伝わっています。

そうして、明治三十四年(1901年)、播但鉄道は生野〜新井を開通させて路線を延伸するも、不況などの諸事情により経営不振に陥り、三十六年に播但鉄道株式会社は解散、その志は山陽鉄道に引き継がれます。三十七年(1904年)日露戦争開戦。三十八年(1905年)には日本を代表する俳優、志村喬が生野町にて誕生。翌、三十九年(1906年)に公布された鉄道国有法により、播但鉄道は国有化されて国鉄・播但線となります。

時代は大正となり、大正三年(1914年)、第一次世界大戦、大正九年(1920年)、 銀の馬車道廃止となり。時は昭和へと進み、過酷な戦争を経験した後の昭和四十八年(1973年)、戦後の復興と高度経済成長を見守った生野鉱山は「鉱山部門」としては閉山となり、現在は「近代化産業遺産認定」「日本の地質百選」「国の重要文化的景観選定」の「史跡・生野銀山」として、観光坑道を公開。訪れる人々を、千二百年の歴史とロマン、水と緑の美しい銀の里に誘っています。

また、鉄道の開通とともに徐々にその役割を終えた馬車道は、経路の変更やアスファルト舗装へと改修され、県道や国道の一部になったり、古く趣のある町並みの生活道路として、現在も大部分が利用されており、平成十九年(2007年)には、「銀の馬車道」を中播磨南北交流のシンボルとして掲げ、多彩な交流と地域の活性化をめざして様々な事業を展開することを目的とした「銀の馬車道ネットワーク協議会」が設立されました。

「銀の馬車道」は近代産業遺産となり、平成二十四年(2012年)、「銀の馬車道プロジェクト」は日本ユネスコ協会連盟の「プロジェクト未来遺産」に登録。

現在も「生野銀山」と「銀の馬車道」をはじめ、沿線地域は、地域の再生や高齢化社会への取り組みなど、様々な活動を通じて、かつてこの場所を駆け抜けた人々の篤い想いとともに、地域の振興、発展に、交流づくりに活躍しています。

[参考文献]
生野銀山と銀の馬車道/清原幹雄・著
内藤利八瀝瀝/松岡秀隆・著